落語×授業
いい落語とか漫才って(コントは?と疑問に思われるかもしれないがコントは今回はちょっと除きます。)ネタの内容やテクニックはもちろんなんだけど、突き詰めるとそもそもサウンドとしての美しさがある気がする。
サウンドとして美しいものは「ずっと耳に入れていたい」と思える。
落語には「ヤマ場」と「ダレ場」というのがある。
「ヤマ場」は物語の盛り上がりどころ。一番聞いていて面白い部分。
「ダレ場」は、聞いている人にとっては退屈だが、物語を進行する上で必要となる部分。
落語家は、ネタの中で声色を使い分けるが、このダレ場こそいい声で演じるそう。
「ヤマ場」は放っておいても聞いてくれるが、「ダレ場」はそのままでは聞いてくれないので、サウンドとして美しくする。ということ。
このテクニック、授業でも共通すると思う。
45分間同じ声で話していないだろうか。
退屈な説明の場面、どんな声で話しているだろうか。
ちょっと意識をしてみようと思う。
そして落語と学校の共通点がもう1つ。
かの立川談志師匠の言葉にこんな言葉がある。
「落語とは人間の業の肯定である。」
落語の主人公の多くは、賢くないし、いい加減。仕事もしていないし借金もある。
愚か者のことを、落語によく出てくる主人公に例えて「与太郎」というくらいだ。
そんな与太郎たちを、落語は愛らしく、面白く描いている。
学校にも、宿題はやってこない。忘れ物は多い。そんな与太郎たちがいっぱいいるはず。
学校こそ彼らを肯定して、愛らしく見守ってあげる場であるべき。だと思う。
#お笑いX学校教育